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訪問交流報告(2018/5/16〜5/23
)(18.6掲載)
核兵器不拡散条約(NPT) (15.4 掲載)
バンドン会議 平和十原則 (15.4 掲載)
日米安全保障条約 (15.4 掲載)
日米防衛協力のための指針(中間報告) (15.4 掲載)
社会保障(最低基準条約)第102号 (15.3 掲載)
社会保障の権利維持条約(第157号) (15.3 掲載)
ILO『世界社会的保護報告』2014-15年版概要(14.7 掲載)

国際情報を手作りで発行しています

*隔月に発行。
 高齢者・年金・医療問題を中心の情報を原典から翻訳して発信。

*都道府県本部に各2部送付

*その他、希望者には年間1000円で送付します

申し込みは年金者組合中央本部・国際部まで

 国際人権活動日本委員会や日本高齢者NGO会議などとも連絡をとりあいながら、国連への働きかけなどをしています。


年金者組合、低年金・無年金の問題を
国連人権委員会、ILOに訴える

討論集会は12カ国47人の参加で成功

 「高齢者が無年金、低年金のまま放置されているのは、人権問題。日本政府は社会権規約委員会の勧告を実施せよ」の声を国連に届かせようと、26人の要請ツアー参加者はジュネーブの国連欧州本部へ。おりしも、国連人権委員会は、人権理事会への昇格が決まり、3月27日に閉幕。まさに、その閉会日に、人権委員会に参加してきました。
  航空機の事故で一日遅れの到着になったり、人権委員会の時ならぬ閉会など、難題のかさなる中でしたが、ほぼ予定の要請行動を行い、大きな収穫を得ることができました。
「財源は最低年金を実現しない理由にならない」と社会権規約委員会職員
 27日、まず一人ずつ写真をとって、人権委員会への参加証を発行してもらい、入館。午後は、少し離れた高等弁務官事務所を訪問して、国連社会権規約委員会の専門職員の話を聞きました。「最低保障年金を実施しない理由として財源問題をあげるのは許されない。まして、日本ではそれは理由にならない」と明快に断言。「最低保障年金を実施させるためにNGOの果たす役割は大きい」と励まされ、国連勧告の実施にかかわって、NGOができるさまざまなことを教えられました。持参した「無年金・低年金の人の証言集」の英語版および、最低保障年金制度についての年金者組合の見解を提出しました。英語版証言集は大変よい資料だ、と言われました。

ILOへの訪問
 28日には、午前中、ILOを訪問。やはり日本の年金の実態を訴えました。「従来社会保障のおよばなかった人々に所得保障などを拡充するのがILOの方針。すべての人に年金を保障することが優先されるべき」という話でした。ここでは、ILOへの年金制度に関する英文報告書を提出。あわせて、証言集の英語版も手渡しました。
国連での討論集会に12カ国47人が参加、熱のこもった討論に
  28日の午後は、人権委員会閉会後にもかかわらず、国連の中の部屋で、年金者組合が討論会を主催。12ヵ国47人の参加で成功しました。高齢化に関するNGO委員会の議長、スタッケルバーガー氏がゲストスピーカーで発言。「高齢者はさまざまな人権問題をかかえている。人権理事会の中で主要な議題にさせていこう」と訴えました。
  日本からは、「84才まで生きてたたかってきたが、無年金」「雇用差別の中で女性は低年金者が多い」「年金が低い上に、医療・介護の負担増でさらに大変」など、高齢者の生活の大変さを訴えました。また、文化活動に力を入れている年金者組合の地域活動の紹介なども発言。外国人参加者の共感を呼びました。 ここでも、年金者組合の持参した英文証言パンフが大きな反響を呼びました。この会議には、人権関連国際NGO協会(CONGO)からも参加。パンパシフィック東南アジア女性委員会、国際老人学協会の専門助言者など、5人の外国人の発言があり、ブラジルからの参加者は、「発展途上国だけでなく、先進国でも高齢者が同じような問題をかかえていることを知って、日本のことを身近に感じた。高齢者の尊厳を守ることは世界中の課題」と発言。討論は、予定の時間を大きくすぎて、盛り上がりました。 高齢者の人権・生活擁護のために、今後も手を結び合うことを約束して会を終わりました。

30日、オーストリアシニア連合との交流
  ほぼすべての人が保障されているというオーストリアの年金制度についての説明のあと、活発な質疑応答。そのあと、シニア連合の人たちの手製のケーキと夕食をごちそうになり、テーブルごとの片言の交流。おみやげの交換。最後は、「ふるさと」「エーデルワイス」の合唱で盛り上がり、最高に楽しい夕べになりました。抱き合って別れを惜しんで、バスに。

 ジュネーブでは、連日雨が降ったりやんだり。楽しみにしていたモンブランも霧の中でした。ウイーンでは、晴れて暖かい街を歩き、夜はオペラやコンサートに。8日間の充実した要請の旅を終わりました。 


無年金・低年金の問題を人権侵害として国連人権小委員会に訴える
国際人権活動日本委員会第15次国連人権委員会への要請ツアーに参加して
2005年7月29日〜8月7日
 無年金・低年金者の存在を人権侵害の問題として訴えるために、今年はじめて、7月29日〜8月7日までの国際人権活動日本委員会の国連要請ツアーに参加しました。

 このツアーでは、国連人権小委員会(26名)の全員に「最低保障年金実現を求める年金者組合の報告」を含む「民の声」を届けました。また、8月4日の国連人権小委員会で、日航の女性差別、大石市議のビラまき事件、とあわせて、年金者組合の最低保障年金問題を訴えることができました。
 そのあと、治安維持法国家賠償同盟の主催するランチタイム・ブリーフィング(討論会)で、年金問題を人権の問題として訴えることができました。
 その他、要請団の人たちや、ランチタイムブリーフィングに参加した外国人、ジャパンデーに参加した人たち、と知り合いになれたことや、8月5日の昼、
International Peace Bureau と日本の参加者たちで、ノーモア・広島・長崎の平和集会に参加できたことは楽しいことでした。


国際高齢化団体連盟 第7回世界会議

 
於 シンガポール 9/4〜9/7
発展途上国の高齢化問題焦点に
高齢化への課題についての討論に参加
IFA(国際高齢化団体連盟)から招待を受けて
国際部 森口藤子
 IFAは高齢化問題にかかわる約100のNGO、NPO団体、50カ国の草の根運動を組織する国際団体である。自立・参加・ケア・自己実現・尊厳という国連の高齢者原則を中心に世界中で大きな差異のある高齢者の現状を改善するために、交流・提言の活動をしている。1998年の国際高齢者年を記念して第4回の世界会議をモントリオールで開き、これには日本高齢者NGO会議や年金者組合も参加し、この会議での宣言が中心になって、2002年国連高齢化問題世界会議が開かれた。

 今回は、第7回世界会議ということで、アジアで開かれる会議という特徴をもち、年金者組合にも招待があったので、国際部を中心に中央執行委員など4名がレポートをもって参加してきた。

よく準備された会議と報告内容
 

 会議は4日の開会式につづく7日までの
3日間、朝9時から夜6時あるいは8時までびっしり行われた。参加者は約750人、参加国50か国、全体会5回、分科会は54回、報告230、この他に全体会の講演10本があった。会議はどれもよく準備され、予定された報告者が来ないなどという分科会は一つもなく、報告はすべてパソコンの報告要旨をスライドスクリーンに映しての報告であった。報告者は、政府関係者、行政・研究所の関係者、高齢化・医療・社会経済学の大学教授、NGO関係者などであった。運動の関係者は比較的少なく、労働組合などの参加はなかったが、報告内容がしっかりしているため大変興味深く勉強になることが多かった。

 今まで何回か、国際会議に参加してきたが、マドリード会議を除けば、今回の会議が一番収穫が大きかったような気がする。


 3日間とも朝
9:0010:30 は「劇場」と呼ばれる数百人入れる大会議室での「講演」が、一日二人ずつ行われた。興味深かったのは、その二人が、政府・国連関係の権威はあるが比較的穏健な立場の人と、革新的な立場の人が組み合わされているように思われたことである。

 
10:30になると30分のティ・ブレイクで、おしゃべりと交流。
 11:0012:30 豊かな高齢期・医療介護・雇用・所得保障・高齢者虐待などのテーマに分かれての分科会。4〜8人ぐらいの報告者の報告を中心に討論が行われた。
 12:3014:00 ランチタイム。広大な会場でビュッフェスタイルの食事と食事をしながらの報告。
 14:0015:3  二回目のテーマごとに分かれての分科会。
 15:3016:00 ティ・ブレイク。
 16:3018:00 三回目の分科会。18:00からの分科会がある日もあった。
 全体で約750人の参加者、分科会・パネルデイスカッションの発表が約230。


開会式での講演・・・貧困問題に鋭く切りこんだアラン・ウオーカー氏

 英語による講演、報告なので不十分な理解の部分もあるが、私が聞いた講演、参加した分科会での報告のうち印象に残ったものを中心に報告したい。


 開会式での講演は、国連アジア太平洋経済社会委員会の理事
Kim Hak Su 氏とイギリスのシェフィールド大学の教授Alan Walker 氏の2本の講演があった。Kim Hak Su 氏は、いま、高齢化が大変な勢いですすんでいることを強調。特に日本の高齢化の進展をとりあげて、日本では2050年には41%の人口が高齢者になること。高齢者の経済的な活力を維持・引き出す重要性を指摘。日本では(年金受給年齢)退職年齢を2021年に65歳に引き上げるが、それはまだ先の話であること、ジェンダーの問題が重要であること、特にアジア・太平洋地域では家族の役割を重視することが大切、などの内容であった。高齢化への制度的政策的重要性が強調されず物足りなかった。

 これに対して
Alan Walker 氏の講演は、発展途上国の貧困とのたたかいが高齢化の最大の問題だとのべ、克服すべき困難点を5点に整理して述べたものであった。すなわち@現在ひろがっている経済発展の型(これでは貧困は克服できない)、Aグローバリゼーションの否定的影響、B発展からの高齢者の疎外、C公的な政策に対する確信のなさ、D高齢化問題を優先させる政治的意志の欠如、である。優先すべきことがらは、貧困の克服であり

、人権の尊重である。これらは困難ではあるが、希望がある。その根拠は、@アジアなど途上国地域の秘められた建設的な力、A社会的な運動と国際的な市民勢力の発展、B国連の積極的な社会政策の指導性、C新・自由主義の社会的失墜、D別の世界秩序を創りあげる成功経験、E政治的な新勢力の兆候、Fマドリード高齢化世界行動計画の策定などである。人民の立場に立った切れ味するどい講演内容で胸がわくわくする思いで聞いた。


 高齢化は決して危機(
Crisis)ではなく、克服すべき課題(Challenge)であり、その答えはマドリード計画にある。しかし、それは実行されなければならないし、実行を監視されなければならない、ということばで講演はしめくくられた。


高齢化社会を迎えての問題は・・・インドのゴックヘイル氏の講演

 9月5日の全体講演は、IFAの前理事長の追悼講演で始まった。講演者は、インドの
S.D.Gokhale 氏で、彼は、インド政府の要人、社会福祉委員会の事務局長、国際アジア社会福祉委員会の事務局長、国連やユニセフのアドバイザー、1992年から1997年までIFAの会長を務めたという人である。

 講演の要旨は、高齢化の世紀といわれる21世紀には、とりわけ@非正規雇用の分野でどう社会的経済的保障を供給していくか、Aアルツハイマーなど医学の分野での高齢期の研究、B女性の高齢期、雇用の非正規化、高齢者虐待と犯罪、C幸福な高齢期をすごすための精神的な支え、などが重視されるべきだということであった。


 「老いるとは、成熟と退化の複合であり、人間はそれぞれ別個に老いる」「不利な女性に力をつけることが急がれなければならない」「いかなる政策も平等の権利をもつものでなければならない」「老いが楽しいためには、生の動機付けが必要で、精神性も必要になる。結果を期待しないでやるべきことをやるという態度が望ましい」など、示唆に富んだ発言があった。


 2つ目の講演は、イリノイ大学の
S.J.Olshanskyによる「生命の設計」という題名である。バイオ・テクノロジーの発展がいちじるしい。このまますすめば、人類はやがて「種としての寿命」を越えて生きられるようになるかもしれない。目・耳・四肢・内臓など衰えた部分を新しい部品に変えていくことができるかもしれない。絵入りの楽しい説明であった。


所得保障:高齢者の雇用の分科会


 そのあと、
11:00からの「所得保障:高齢者の雇用」の分科会に参加。トルコの高齢者の状況の報告。オーストラリアの大学教授による報告はくわしい調査結果にもとづいたもので、高齢者雇用をさまたげる雇用主の高齢者差別意識をとりあげていた。「高齢者は最初に馘首され、最後に雇用される。高齢者への差別感が雇用差別の根底にある」と結論づけていた。

 スウエーデンの女性は、若い管理職が高齢労働者をつかうときに注意すべきことを調査にもとづいて報告。高齢労働者を使うときに注意すべきことは、「よく話を聞く、質問をする、妥協をする」ことだと結論づけていた。日本の独立行政法人産業安全研究所の永田氏が高齢者の通勤途上の事故についての調査を発表していた。


 昼食時に、日本の厚生労働省の渡辺氏が日本の介護保険制度の改革について報告をした。

 午後は、シンガポールのNGO・SAGEによる高齢者虐待についての報告を聞いた。高齢者虐待とは何か、どう発見するか、発見したらどう対処するか、などをきちんと報告していたが、高齢者虐待の社会的背景にふれていないのが物足りなかった。
 

数百名参加の全体講演会で議長をつとめる


 9月6日の全体講演は、私が議長を務めることになった。日本人ただ一人の議長であった。IFA開催の4〜5日前に事務局からメールで依頼が飛び込んで、「旅の恥はかきすて」の心境で引き受けたが、その後、そのセッションの詳細が送られて
こないまま当日を迎えたので、非常に不安だった。

 私の依頼状には
9:45〜と書いてあったが、9時前に会場に行くと、すでに壇上の議長席には私の名札が置かれてあった。数百人入る大きな会場である。その場で講演者の略歴書をもらう。うれしいことに私の担当は、上海セミナーで話を聞いたことがあり、強く共感したDalmer D. Hoskins氏であった。「国際会議での議長の経験は初めてであること、Dalmer Hoskins氏は尊敬しているので議長を務めさせていただくのは名誉に思うこと」を告げて、2番目の講演を始めてもらった。

 
Dalmer Hoskins 氏の講演は「高齢化と社会保障:危機か、それとも新しい合意か」という題名。いま、世界の先進国とますます多くの発展途上国で、政府は増大する高齢者の医療・所得保障を供給することがはたして可能なのか、という議論をしている。この議論はすでに10年ぐらい続き、この間、多くの国では、高齢者の増大に社会保障政策を調整する作業がすすんでいる。経済発展のためにも社会保護が決定的に重要だと強調。いま、多くの政府が高齢者保護の責任を個人や民間部門に移そうとしている。が、世界人口の80%と推定される発展途上国の大群衆は社会保障の枠組みの外にいる。社会保障の将来をめぐっての政治的対立のかげに、高齢化世界に向けて準備する新しい合意を求める探求がある。という内容であった。

 国際会議の議長という経験をさせてもらったが、あとで、「よい司会だったよ」と言ってくれた女性もいてホッとした。日本には年金者組合があるという宣伝になれたら、よかったと思う。

「NGO−変化を起こすもの」の分科会に参加

 
11:00からのセッションは、「NGO−変化を起こすもの」という分科会に参加。Help the Age, イギリスのAge Concern, オーストラリアの全国高齢者協会などの報告を聞いた。

 午後は、次の日のプレゼンテーションのために、パソコンをもちこんでの作業と打合せ。なんとか、パソコンでのプレゼンテーションができそうなのでホッとする。


 そのあと、「豊かな高齢期と世代交流・ボランティアリズム」の分科会に出た。インドで退職者がストリート・チルドレンの指導者(
mentor)となって活動をしている経験の報告、日本に留学していたシンガポール大学生の日本でのボランティアリズムについての報告があっておもしろかった。日本の場合、ボランティアで楽しむというより、自分を犠牲にして活動するのがボランティアという考えがあるので、なかなか広がらない、などと言っていた。

 シンガポールのCPF制度−自助努力による社会保障

 7日の朝の全体講演では、シンガポールの「安心できる退職後のための貯蓄:CPF(
Central Providence Fund )制度」についての説明を受けた。

 シンガポールでは、高齢化の哲学は自助努力である。まず自分→家族→地域→政府と努力する。政府は最後の手段である。CPFはそういう哲学で作られた制度なので、将来に向けて政府の重荷になることが少ない。


 CPF制度は1955年に発足。当初は労働者の退職後の貯蓄であったが、今は総合的な社会保障制度になっている。CPFはすべての雇用労働者が加入する。労働者20%、雇用主13%ずつ貯蓄する。55歳以上になるとレートが下がり、労働者12.5%、雇用主6%になる。この貯蓄は最低金利2.5%で運用される。貯蓄のうち、5%が老齢年金に、6%が医療に、22%は住宅や不時の支出に使われる。

 制度の問題点は語られず、CPF万歳という報告であったのが疑問を残した。

 南アフリカ・ブラジルの保険料なしの年金制度を評価

 2本目は、アフリカ高齢化研究所の
Monica Ferreira教授による「発展途上国の所得保障を前進させるためにーーアフリカに焦点をあてて」という講演だった。現在高齢者の63%は発展途上国にくらしており、その多くが農村に住み貧困にあえいでいる。2050年には世界の高齢者人口の80%が発展途上国に、51%はアジアの国々にいることになる。

 
先進国の労働者を中心に社会保障制度がすすんでいるが、途上国ではインフォーマル(非正規労働者)な労働者がほとんどであり、貧困が高齢化の最大の問題である。そうした途上国では、高齢者は子どもに頼るほかにすべがなく、「子どもがいなければあなたは裸である」ということわざどおりである。

 年金制度は高齢者の所得保障になるはずであるが、途上国の高齢者の多くがカバーされず、ユニバーサルな年金制度ができる国は少ない。南アフリカとブラジルの保険料なしの年金制度は個人や家族に貧困からの脱却をもたらし、その所得保障の力で地域社会の発展に寄与することを可能にする。これらの最低保障年金制度を変化する環境と貧困・窮乏という背景の中で考え、教訓を引き出す必要がある

 年金者組合が「年金改革と所得保障」について分科会で報告

 
11:00からの分科会で、年金者組合の「年金改革と所得保障」という題名で報告をした。パソコンによる要旨が準備不足のためやや不十分だったのと、かなり長文のプレゼンテーションを短くしたため、ちょっとまごついた部分もあったが、なんとか英語で報告ができた。報告のあとの質問では、日本の年金改革についての質問は出なかったが、分科会が終わるとすぐ、インドの人をはじめ数人が近寄ってきて、「よい報告だった」と感想を言われ、「報告のフルテキストがほしい」「なぜ、日本で無年金者がいるのか」などの質問や要望を受けた。報告の内容を印刷物にして持参していたので、それを配布して喜ばれた。 昼食後、「所得保障と急速に変化するシンガポール社会における高齢女性」の分科会に出た。朝の全体会の講演でCPF制度が説明されたが、この分科会では、女性や非正規労働者が制度から取り残されていることが報告され、それにCPF制度を説明したWille Tan氏が反論し、言い合いになっていたのが興味深かった。

 発展途上国の高齢化の課題・・・劇的な高齢化が予測される中国など

 最後に、
16:00からの「発展途上国における高齢化の課題」という分科会に出た。アジアには、日本のように「高齢化する前に金持ちになった国」、台湾や韓国のように「高齢化する前にまあまあ金持ちになった国」「インドなどのように高齢化する前に貧乏な国」があるという分け方をしていた。中国の高齢化の課題、シンガポールの高齢者の立場に立った医療、バングラデシュの高齢者の問題、ネパールの高齢者の状況、インドの高齢者に与えるグローバリゼーションの影響、などの報告があった。

 中国では、少子政策の影響もあって高齢化が急速にすすむ状況にある。2000年には60歳以上の人口は1億3千万人、全人口の10.5%であり、労働者対高齢者の比率は9人:1人であるが、2050年には、高齢者人口は4億5千万人、全人口の32.7%になり、労働者対比は2.8人:1人になる。驚くべき劇的な高齢化である。中国では、伝統的なアジアの家族の役割を強化する政策をすすめようとしている。また、高齢者ができるだけ労働力としてとどまる政策が必要という主張であった。また、@保険料による年金制度、A貧困者への福祉、B農村地域で一人っ子高齢家族に対する政府援助金、C医療制度などをすすめている。

 バングラデシュの高齢者の状況もひどい。高齢者の55.8%が字が読めず、50.8%は息子が世帯主であり、極貧層が37.7%いるということである。

 ネパールでは、高齢者を尊重する社会的文化的規範がある。しかし、多くの人口が山岳地帯に住んでおり、病気のときは篭に入れて若者が運ぶ人間タクシーに頼るしかない。また、核家族化が始まっているので困難もある。高齢化問題が政治課題であるというのは、ネパールでは新しい考えである。緊急治療費として
20,00040,000ネパール・ルピーが支給される。75歳以上の高齢者には175ネパール・ルピーが、65歳以上には125ネパール・ルピーが支給される。

 インドでは、経済の自由化、社会保障の民営化がすすんでいる。そうした中、高齢者の30%が貧困ライン以下、80%が農村に住み、73%が字が読めず、53%が寡婦で援助者がいない、という状況にある。

 これらの報告によって、発展途上国の大変さの一片をうかがうことができた。

アジアを視野に入れた運動を

 今回の会議には年金者組合4人の他に日本高齢者NGOから9人の参加。年金者組合は会議で報告したが、その他に日本高齢者
NGOとして日本の高齢者問題全体を訴える"Issues on Ageing in Japan"というパンフを持参、配布した。また、西日本NGOから核廃絶の訴えの文章を配布した。

 「高齢化の世紀」と呼ばれる21世紀がはじまって、アジア各国もいよいよ高齢化への課題が真剣に語られるようになっている。21世紀の特徴は、「国際化の世紀」でもある。各国がそれぞれの経験や考えを出し合って国際的な討論をすすめていくことで、より公正な社会政策がつくられていく契機になるのではないかと思われる。


 残念なのは、日本からの報告は、ほとんどが「ユニバーサルデザイン」など産業がらみのものだったことだ。利益を目的とする団体は本来NGOともいえない。アジアの人たちが高齢化と貧困撲滅のためにさまざまな努力を傾けているとき、そうしたテーマに切り込んでいくような報告が年金者組合のものをのぞいてはなかったことが残念である。韓国の人が、「韓国は何でも日本の真似をしようとしている」と語りかけてきたが、その日本は何でもアメリカの真似をしようとしているのである。もっとアジアに目をむけるべきだとつくづく感じた。 


南アフリカ共和国の最低保障年金は
どのようなものでなぜ可能だったのか

───  南アフリカ共和国大使館を訪問して───

南アフリカ共和国とは・・・

 南アフリカ共和国は、世界に名だたるアパルトヘイトという人種差別の政治を公然と行なっていた国です。当時人口十数パーセントの白人のみが政治への権利をもち、黒人たちはあらゆる場面で差別され、人間扱いをされなかっただけでなく、都
市から追い出されて農村部の決められた区画に住むことを強制されました。黒人たちの命をかけた果敢なたたかいで、アパルトヘイトを撤廃させ、黒人の投票権を勝ちとってマンデラ氏を首相に選んだのが1994年です。

 それから、今年でちょうど10年になります。新生南アフリカ共和国で、どのような最低保障年金が実施され、それはなぜ可能だったのかを聞くために、3月8日、南アフリカ共和国大使館を訪問しました。訪問日程が変わったために、国際部5名でたずねる予定が、田中寛治さん、磯山和子さん、森口の3人と年金者組合顧問の小島宏氏の4人になりました。

 対応してくれたのは、大使館の参事官で現在大使代理のマサツエ・ミネレ氏です。大使が昨年12月帰国し、まだ正式の大使が決まっていないそうです。前大使の帰国パーテイにも参加しましたので、幸い顔を覚えてもらっていて、すぐに話がはず
みました。わかりやすくゆっくりした英語で話してくれ、森口が通訳をしました。


南アフリカ共和国の最低保障年金は・・

 さっそく最低保障年金について次のように話してくれました。「まず、移住労働のシステムについて理解をしてほしいのです。アパルトヘイト時代黒人は住む場所を奪われ農村部に追いやられましたが、働くために都市に通ったり住み込むことを余儀なくされたのです。追いやられた農村部は荒れた土地で、家もなく、掘っ建て小屋でくらしました。高齢になり都市で働けなくなると農村に帰されました。新しい政府ができたとき、そういう高齢者がたくさん農村にいました。

 そこでまず、政府は国中のすべての農村地域の黒人の高齢者を一人一人調べあげ、名前・年齢などのデータベースを作ったのです。そうして、7年前に最低保障年金をつくりました。男性は65歳、女性は60歳になると、そのすべての人が、最初
は2月に1度、2,000円(日本円に換算すると)を受け取ることができました。国中の農村部のあちらこちらにその年金を支給する場所を設けました。たとえば、東京ぐらいの広さなら5ヵ所ぐらいです。しかし、遠いところから受け取りにくるのは大変なので、郵便局で受け取れるようにしました。郵便局に口座をもうけ、そこにお金がはいるのです。都市なら銀行でも受け取れます。

 現在では、毎月年金を受け取ることができ、その額も5、000円程度です。日本とは貨幣価値がまったくちがうことを考えてください。
 問題は、南アフリカは、まだまだ貧困や高い失業率をかかえていることです。水がなかなか入手しにくいという問題もあります。ですから、高齢者への年金が家族を助けることになります。職のない家族や子どもが、その年金でかろうじて暮らしているという現実もあります。なお、年金については、最低保障年金のほかに公務員や民間の労働者には保険料による年金もあるということでした。


新政府がとりくんだ社会保障政策・・医療と教育

 次にミネレ氏は、新しい政府がとりくんだ社会保障政策について話してくれました。
「農村部の黒人地域では、子どもが飢えており、また、学校が5km〜10kmも離れたところにあったので、学校へ通うことが困難でした。それで、小さな学校を数多く建て近くの学校に通えるようにしました。日本からの援助で90の学校が建てられたことに私たちは感謝しています。また、1歳〜8歳の子どもは、学校で食事を与えることにしました。そのことが、子どもの栄養状態を改善し、また、子ど
もが学校へ通いたくなる動機付けにもなりました。それから、医療の問題では、0歳〜8歳の子どもと妊婦の医療は完全無料です。」

 
南アフリカの3つの地域 「南アフリカは、3つの地域に分けられます。第一に農村地域です。貧しい黒人が多く住んでいます。そこでは、一人で生活できない人の問題、医療の問題、住居の問題などが深刻です。そうした問題の解決に力を入れています。人間らしい住宅をつくり、家の前の通りが舗装されているようにし、また、医療では、所得の少ない人は、少ない金額で治療が受けられるようにしました。

 第二は、町(Township Residential Area)の住宅地です。ここは、公務員や退職した公務員などが住んでいます。医療では、大きな病院があります。

 第三は、都市部です。ここは、白人などが多く住んでいます。病院の数も多く、小さな民間医療機関もたくさんあります。救急車を呼べば、10分で治療を受ける ことができます。ちなみに、町の住宅地では、救急車を呼ぶのに30分かかり、農村部では、ほとんど救急車はありません。


黒人の再移住の試み 

 「私たちは、黒人を再移住させる試みをしています。アパルトヘイト時代に黒人は住んでいる家を追われて農村に強制移住させられました。そこで黒人をもと住んでいた都市に帰そうとしているのです。たとえば、ケープタウンには第6区画 (District 6 )という場所があります。ここはもとは黒人がすんでいたのですが、追い出されてその後白人が住んでいたのです。そこへ、すべての、元住んでいた黒人を帰すことに成功したのが昨年の一月です。82歳になる老婦人が『また、ここに住めるなど夢にも思わなかった』と言ったことに胸がつまりました。」

 なぜそういうことが可能だったのか
 世界で第2位の経済力を誇る日本に住む私たちは、つくられてからたった10年の、この南アフリカ共和国の政治に深く感動しました。そうして私は、なぜ、そういうことができたのか、を率直にたずねました。ミネレ氏は次のように説明してくれました。

 「黒人が初めて投票権をもった1994年の選挙は、単に政治を選ぶだけでなく、人間の尊厳をとりもどす行為でした。私たちの政府は人民が中心の政治 (People-centered Policies )をおこなっています。白人はすでに何でも持っているのですから、貧しい黒人のための政治をやる必要がありました。」この人民が中心の政治People-centered Policyということばは何回も繰り返されました。
税金は所得の多い人から・・・私の給料票を見せてあげましょう

 「最低保障年金は全額税金です。そのための財源は、所得の多い人ほど多く出す税金によって支えられます。たとえば私は、約40パーセント税金として政府に出 しています。見せてあげましょう。」ミネレ氏は部屋を出て行き、やがて自分の給料票を持ってきて私たちに見せてくれました。私は「写してもいいですか」とたずねてから、その金額を書き取らせてもらいました。15666.50の給料から7540.94の金額が差し引かれていました。それが税金なのだそうです。ミネレ氏は高給取りのため約半額近い税金でした。


「日本では年金改悪が審議されようとしている」

 私は、日本では、いま、年金「改革」が審議されようとしているが、それは人民にとっては改悪なのだと私が説明すると、「なぜですか」と聞かれたので、「政府は少子高齢化だからしかたがないと言っている。財源がないというのです。私たち
は反対してたたかっているところです」と答えました。
 ミネレ氏は、もう一度、「南アフリカでは人民が中心の政治をするので改悪はない」と強調しました。そうして、「南アフリカでは、労働組合運動が強いのです。

 労働組合の指導者たちが政府に入っています。COSATOという労働組合の連合体があり、南アフリカの労働組合はすべてこれに加盟しています。人々のくらしに関するさまざまな要求がここに結集され、政府に提出されます。政府はその要求を
尊重して政策を決めるのです。」と説明してくれました。その後、「私は、労働組合運動を強くしろとアジテートしているのではないんですよ」と笑いました。
 
南アフリカは8色の「虹の国」

 南アフリカは、よく「虹の国」と言われます。そのことについて田中寛治氏がたずねました。ミネレ氏は、「よく虹は7色だといいますね。南アフリカの虹は8色なのですよ。」と言って、7つの色の下に「黒」という色を付け加えました。ハンサムで知的なミネレ氏の黒い顔は、誇りに満ちていました。

 南アフリカ政府の達成したことは、諸国民の連帯の力
 最後にミネレ氏は、「南アフリカ政府が達成したことは、私たちの政府がえらかったり、献身的だったりしたためではありません。これは、多くの国の人民の連帯の力で達成したのです。私たちは、アパルトヘイト時代、また、現在も私たちを支 えてくださっているあなたがたに深く感謝しています。」と言いました。

 私は、とても感動しました。日本の保守的な政治家が、こういうことを言う場面 を想像することはできません。前大使の話を聞いたときも感動しましたが、教養、識見、人格ともにすぐれた南アフリカの人と親しく接することができてほんとうに幸せな思いでした。
政治は変えられる。未来はある。ここにその生きた証がある。  

 10年少し前まで、黒人が容赦なく弾圧され、投獄され、殺されていた南アフリカ。その南アフリカで人々は何を願い、何を耐え、何を犠牲にしていたのでしょう。 そのころ、くらしや政治は変わらないと絶望していた人もいたのではないでしょう か。でも、アパルトヘイトは崩壊しました。白人の支配も終わりました。

 私はアパルトヘイトの時代の苦難を耐えてたたかいぬき、今、私の目の前で南アフリカの政治について私たちに語ってくれているミネレ氏の黒い知的な顔を見ながら、「政治は変えられる。私たちにも未来はある。なぜなら、ここにその生きた証
があるのだから」と強く思わずにはいられませんでした。
 12日には、南アフリカ建国10周年のお祝いパーテイがあります。そこに招待され、記念写真をとって、私たちの南アフリカ共和国大使館への訪問を終わりました。       (森口藤子)


“別の世界は可能だ”

 "Another world is possible.別の世界は可能だ" をメインスローガンにして、アメリカ一国主義の世界、アメリカ資本に支配される世界に反対する人々が、12万人参加して世界社会フォーラムは開かれた。
 広大な敷地の中に、古い工場の跡を利用しているという感じの会議場が無数にあって、どの会議場もあふれる思いをもって参加した人々の熱のこもった発言が続いた。
 会場の中の通りは、横断幕やプラカード、さまざまに工夫をこらした宣伝物をもってパレードするグループが果てしなく続いた。圧倒的にインドの人が多い。グループごとにお揃いの衣装でダンスをし、太鼓をたたき、歌をうたう。3メーターぐらいの高さの竹馬に乗ったピエロの衣装の人たちもいる。黒い水牛の大きなお面をかぶった人たちもいる。リーダーに従って元気にシュプレヒコールを叫ぶ。ほこりと喧噪の中を人々が一日中行き交う。黒い肌、茶色の肌、白い肌。女性が非常に多い。労働者がいるし、インテリの学者がいるし、労働組合の活動家がいる。若い男性や女性、白髪の男性がおり、障害者がいる。まさに世界の労働者の祭典である。黒い肌が圧倒的に多いが、現実の世界でも黒い肌・茶色い肌の方が圧倒的に多いのだと思った。その貧しい、黒い肌の人々が堂々と、「別の世界をつくろう」とアメリカの一極支配に反対するプラカードをかかげて歩いてくる。

熱い主張であふれる横断幕

 “この世界は売り物ではない”“平等の者のあいだの愛が平和への唯一の道だ”“ブッシュは消えろ““北は南に借りがある””債務は帳消しにせよ”“水に対する権利を”など、第三世界の生きる権利を主張する戦闘的スローガンが至るところに大きな横断幕であふれている。知らない人同志が目があえば、ほほえみを交わす。
 この、世界の人々の連帯によって、どんなに時間がかかろうともついには、世界は変わらざるをえないし、変わるだろうと胸が熱くなるような思いで実感した。

<一日目:1/16>
混雑の中のオートリキシャはスリルの連続

 全労連・国公労連の人は、国公インターの委員会があるということで、そちらに参加。私は、一人で会場へ。ホテルからオートタクシーに乗って会場へ。オートリキシャはオートバイのエンジンがついた三輪車のタクシーである。いかにも貧弱な三輪車にビニールの屋根がついている。横側は何もないので風が素通しで涼しい。このオートリキシャがブーブー絶えず警笛を鳴らしながら車とオートリキシャで混み合う道を曲芸のように右に左にちょっとした隙間をねらって突っ込んでいく。スリル満点の乗り物である。

プログラムを求めて一日走り回る

 会場で、まず登録を行う。そのあと、アメリカの労働組合UEのワークショップに行ってみたが、ワークショップは20日に延期になったという。UEのロビンさんが私にあえてとてもうれしいといってくれた。それで、他の会場をのぞいてみる。大小さまざまな会場で集会が行われている。「とにかくプログラムがほしい」係の人にプログラムはどこにあるのか、と聞くが要領を得ない。指示にしたがって行くとプログラムはあるが、そこで見せてくれるだけである。たくさんの人が何十ページもある一つのプログラムにむらがっている。
 とりあえず、あちこちの会場をのぞいてみる。昼食にホテルからもってきたパンをかじり、午後は、大きな会場で原水協が主催している「世界の被爆者の証言集会」に出る。参加者はあまり多くない。しばらく聞いたあと、やはり「プログラム」が欲しくて会場のあちらこちらを探し歩き、ようやく配布している場所を見つける。みんなプログラムが欲しくて殺気だっている。長い列に並んでようやく手に入れたときはうれしかった。会場内のメインストリートを練り歩くさまざまなグループのパレードをしばらく見物してから再び原水協の証言集会にもどり、一日目の会議参加を終える。
 プログラムは夜もあるのだが、混雑と騒音、ほこりと暑さで、疲れてしまい、またオートリキシャを拾ってホテルに帰る。帰りのリキシャはラッシュアワーの混雑の中を一段とスリルがある。となりの車との間隔は数センチである。大きなトラックとバスの間を走る。走っている道の横に斜めに車がつっこんでくる。ドライバーは、ムンバイの道のプロなのだから、と不安をなだめながら必至で座席の前の手すりにしがみついている。
シャワーをあびてホッとする。ろくろく昼食を食べていないので空腹である。しかし、ホテルのレストランは7:30にならないと開かない。7時半近くになって、全労連の布施さんから電話があり、これからホテルに帰るので食事をしようという。私は、待てないので食べているといって、一人でレストランへ。食べ終わったころ、布施さんたちがくる。一日の行動の情報を交換して、明日の予定を話しあう。

<2日目:1/18>

平和と貧困の克服が大きな課題に

 午前中は、“政党と社会運動”というかなり大きな討論会に出た。ボリビアの社会運動家に続いて、イタリアのBertinotti という人が話したが、この人は自分はコミュニストだといいながら、政党と社会運動が協力する必要性を訴えた。インドのSuniti という人は、インドには三つの課題をかかえており、それは@平和、Aカースト制度の廃止、B貧困の克服だと語った。ブラジルからは、Alvarez という人が紹介されたが、ブラジルの大臣だということだった。
 昼は、原水協のストールに行って、署名活動を手伝い、午後は、原水協の女性たちと、「戦争犯罪を告発する女性法廷」に出た。ベトナム・南アメリカ・アフガニスタン・イラクでのアメリカの戦争犯罪が
訴えられた。アメリカの女性は、ブッシュの戦争に反対する運動が大きくなっていると訴え、パレスチナの女性はアメリカが後押ししてイスラエルの侵略が終わらないことを訴えていた。
 夕方、UEのRobinさんから誘いがかかり、Robin さんのホテルのレセプションに出た。次第に人が増えて、みんな口々に話しをするので、喧噪で、叫ばないと話もできないような状態だった。メキシコの法律家や日本人に親戚がいるというブラジルの男性やスリランカの男性などと知り合い、話をした。
 
<3日目:1/19>

社会保障の民営化がどこでも大きな問題に

 数多い会議やセミナーがある中で、社会保障や年金の問題をテーマにしたものは少なかったが、「グローバリゼーション経済と社会保障」という題の会議場は4000人ぐらいは入れる大きな会場だったが、ほぼ座席が埋まる大変な盛況だった。規制緩和の中で失業が増えていること、年金をはじめとする社会サービスが民営化されていること、経済的な安定がなく雇用がないことが問題であると、メキシコ、ブラジル、フィリピンなどの代表が異口同音に言っていた。そうした中で、社会的な戦略が必要だし、経済の国際的な公正さを求めていく運動を強化しようという呼びかけが熱っぽく語られた。
「ブラジルで美しいものは国土と青年」
 会議で隣りあわせて座ったのは、年輩のブラジルの人で、会議が始まるまでのあいだ少し話をした。「ブラジルで美しいものが二つある。その一つは国土で、もう一つは若い人だ。若い人はほんとうに美しいんだよ」という話に驚いた。日本では、若者についてとうてい出てこない表現である。「ブラジルでは、どこでも子どもが多いので少子化の心配はない」というのである。「なかには一人で20人も子どもを産む人もいる」というのでまた驚いた。そして平均寿命は60歳だというのである。かかえている問題に、まだまだ、日本とはちがいがあると思った。イタリアの労働組合CGilの札をさげた人たちがいたので近寄って、自己紹介をし、少し話しをして名刺を交換した。
 午後は、いくつかの小さな会議をのぞいてまわった。
会議のテーマをずーっと追ってみて、高齢者の問題、年金の問題は、発展途上国では、まだまだ緊急の課題にはなっていないのだということを実感させられた。
夜、こんどは、Robin をはじめとするUEの人たち3人が私たちのホテルに来て夕食をともにした。Robin は主として全労連国際局の布施さんと話し、私は、Dave と話をした。組合の専従の仕事を十数年している人である。「UEは労働者の組織化に力を入れているが、ホワイトカラーを組織できていないのが、大きな問題だ」と言っていた。ホワイトカラーは組織されていないので、いま、競争や長時間労働、労働の過密化が強まっている、ということである。ちなみに、アメリカでは、ホワイトカラーとブルーカラーは、はっきりとした区別があり、労働者の意識もちがう。ちなみにDave さんはブルーカラーであり、奥さんはホワイトカラーなのだと言っていたのは、興味深かった。二人ともいそがしいけれど協力しあってやっている。今も、毎日電話している、と言っていた。

<4日目:1/20>

IMF・世界銀行の政策を糾弾する第3世界

 午前中は「仕事と労働の世界」という会議に全労連の人たちといっしょに出た。布施さんによると、このフォーラムに参加している労働運動系の人が総結集しているということだった。「インドでは92%の労働者がインフォーマル(非正規)な労働に従事している」という発言があり、「第3世界でもジェンダーや雇用における差別の問題があり、多国籍企業は労働組合を無視する傾向がある」と世界労連の書記長が発言。フィリピンでは、発展のために国際的な資本・企業を取り入れたが、IMF・世界銀行が主導権を握っていて、完全雇用にはほど遠く、社会悪がはびこっている、ということだった。EU議会の女性委員会の人が簡潔に、教育・雇用・労組や運動体の中での男女平等を訴えていた。インドの人は、「まず仕事を、decency仕事の条件はその後で、というのはまちがい。仕事はあり、だれでも生き延びるために働いているのだから。decencyこそが問題なのだ」などの発言もあり、なかなか興味深かった。
 午後は、市の中心部へ食事をしに出かけて、ショッピングをした。1日目から3日目まで、ほとんど昼食らしい   (北は南に歴史的、社会的、環境的な負債がある!)
昼食を食べなかったので、ホテルでの中華料理は生き返る思いだった。

人口の45%がスラムに住むインド

 インドに着いた第一印象は人の多さである。10憶という人口をかかえるインド最大の都市ムンバイには、1800万人が住む。とにかく人が多い。貧しさがあらわな形で露呈されている街である。
 経済発展8%のインド。ITテクノロジーの先進をいくインド。しかし、住民の45%が依然としてスラムに住む。日本の路上生活者はこぎれいなブルーシートに住むが、インドのスラムは道路際に延々とつづくぼろぼろになり、つぎはぎだらけのテントの列である。古ぼけてほこりで黒々としている。目をそむけたくなるような貧しさがつづく。人々は道に座り込み、赤ん坊は裸でほこりの中にあそび、子どもたちは、身体を洗ったことがないというような汚さで元気なく座り込んでいる。
 このインドの人々が、列車に60時間も乗って世界社会フォーラムに集まり、カースト制度の最下層の人がその不当性をハンガーストライキで訴えていたのも衝撃的だった。
 終わりの日にダウンタウンの方へ観光に出かけたが、観光スポットにはかならず子どもがいて、お金をねだる。5〜6歳から7〜8歳の女の子が生まれたばかりのような小さな赤ん坊を抱いてお金をねだりにくる。タクシーが交差点で (ハンガーストライキをするDalit )
止まると窓をたたく。窓から手をいれてくる。必至の目つきである。恐ろしい光景であった。
 独立して50年。なぜ、貧困が克服できないのか。人間はこれでいいのか? 世界はこれでいいのか? と物乞いをする幼児の目が問いかけてくる。 
 出発のときは、インド航空が濃霧のため丸一日遅れ開会式に出られず、閉会式とデモは飛行機の時間の関係で出られなかった。しかし、アジアや世界の人々から大きな励ましをもらった4日間だった。  (森口藤子)